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【事件事故】良栄丸遭難事件4-航海日誌
1.発覚  2.不思議  3.恐怖(動画)  4.航海日誌

航海日誌概要

1926年(大正15年)

12月 5日、神奈川県の三崎漁港を出港。
銚子の沖合いを目指すつもりが天候が悪く銚子港を目指す。

12月 6日、銚子港へ一時入港。

12月 7日、銚子港を出港。以後銚子沖で漁に励む。

12月12日、突如機関クランクシャフトが折れ、航行不能に。
そこに西からの強い季節風が追い討ちをかけ、船は沖へ沖へと流される。

この時代の漁船に無線が付いていなのは一般的。
また当時はエンジンの出力が弱かったため補助として帆が付いていた。

12月15、16日の2日の間に「紀州船に似た20トンくらいの船」「東洋汽船会社の船」「同業の肥州舟」の三隻の船を発見。
大漁旗を揚げ、火を焚いて大騒ぎしたが、しかしいずれも良栄丸に気づくことなく過ぎ去った。

救助の可能性は低かった。
しかし幸いにも船には食料がある。
船長は漂流を決意、船員もそれに賛同。
食料は4ヶ月もたせるため干物にされた。

日本へ戻ろうにも、強い西風は連日船を東へと押し流す。
これだけ走って島影ひとつ発見できない。

12月20日の記述

二十日朝八時に至り風北にしておだやかなり
西風毎日強い故思ひ切つてアメリカへ乗出といふ太い事を船長が相談を致した所、まだ落合つかず兎に角アンカ三丁上る事にした
十八日午前一時より廿日午前六時まで五十四時間流した

責任のない人はどうでもよいが嫁内小供のある人は実にお気の毒である
又国元の方でも一方ならぬ大さわぎある
何にしても約束であるとあきらめ居てる

親のばちが子にくる
昔々古人の伝へこの十二名は誠に因念の悪いものである
万一助かつたればそれこそ今度は皆大難を通越し運勢朝の昇る如し

サヨナラ


どんなに日本へ向かおうとも、西風は強く押し戻される。
船長は、ならば思い切ってアメリカへ向かおうと決断。
アメリカまで4ヶ月はかかるし、それが困難なこともわかっている。
しかしこのまま救助を待ってただ漂流するよりは、と船員もそれに従った。

後に、気象学者・藤原咲平はこう語る。
「漁船にて米国に達せんとするは、コロンブスのアメリカ大陸発見よりも困難なりと心得うべし」

12月26日、良栄丸はついに東へ、アメリカへと舵を取った。
この日から元号が「大正」から「昭和」になるが、船員たちが知る由は無かった。

12月27日、沖の大海へ出ると波も風も何も無い。
もう外国と日本の中ほどにまで流されたのではないかと不安が募る。

1927年(昭和2年)1月1日の記述

あけましてお目出たう
年玉の御寿を幾千代かけて御祝納め候なり
大正十六年一月元旦計

流れ二八○時、ヴエス一六六時
元日の事とて赤めしにコーヤのさいで目でたい祝をすまし色色思ひ思ひに話して夜にいつた
午後七時風が静かになり流した


年が明けてからも、船員たちは波風を頼りない帆で乗り切ろうと奮闘。
時折魚を釣り上げてみなで大喜びし、ご馳走とした。

1月、2月の日誌は特筆すべきことがあまりなかったためか、ほとんどが日付と方角、航海距離の短い記述が続く。

1月27日、外国の船を発見し、火で信号を送るが気づかれなかった。

2月17日、5貫、6貫(1貫=3.75キロ)の魚を三匹釣り上げ、その喜びに皆笑い、たとえることもできないほど大騒ぎをする。
日誌に書き綴られた、船員たちの最後の明るさだった。

この先から航海日誌は日付と方角程度しか書かれなくなる。

3月5日、ついに糧食が尽きる。
この日、機関長・細井伝次郎が病気のため死亡。

3月6日、残った乗組員連名で船板に遺書を書き残す。
板に書いたのは、船が沈んでも遺書だけはいつか陸に漂着して国へ帰れることを願ったためと思われる。
また、各自記名した封筒に入れた髪と爪も保管された。

遺書

和歌山県西牟婁郡和深村 船主 細井音松(良栄丸)

乗組連名  
船長  三鬼 登喜造
機関長 細井 伝次郎
友取  桑田 藤吉
    寺田 初造
    直江 常太郎
    横田 良之助
    井澤 捨次
    松本 源之助
    辻内 良治
    三谷 寅吉
    詰光 勇吉
    上平 由四郎

右十二名 大正十五年十二月五日
神奈川三崎出発営業中 機関クランク部破レ
食料白米壱石六斗ニテ今日迄命ヲ保チ
汽船出合ズ 何ノ勇気モ無ク ココニ死ヲ決ス

              大正十六年新三月六日

これ以後、日誌には数日おきに船員たちの死が綴られた。
時に魚やサメを釣り、鳥を捕まえて食するが、栄養の偏り、失調によって船員は次々と倒れた。
最初の三名は水葬されたようだが(日誌に水葬の記述はない)、それ以後、死者は船内に放置されたままとなる。

4月19日に上平由四郎が死亡してからは、船には船長・三鬼登喜造と松本源之助のみとなった。

それからも、2人は重度の脚気(カッケ)※に苦しみながら、「命に代えられぬ」と必死に船を修理し、荒れる海に船を操った。
※脚気:ビタミンB1の欠乏によって心不全と抹消神経障害をきたす疾患。下肢の痺れがおきるため「脚気」の名で呼ばれる。

船長・三鬼登喜造が妻子に宛てた手紙

カツエ トッタン(父さん) カヘレナクナリ ナサケナイ
ハハノタシニナッテヤッテクダサレ
トッタン

キクオ オオキクナリテモ リョウシハ デキアセン(漁師にはなるな)

アナタモ コレカラハ クロウデス(略)
アト十二、三ネンハイキタカッタ
ワタシノ スキナノハ ソウメンニモチデシタ
ミキトキゾウノツマ オツネサマ


5月 6日、船長が大病をわずらう。

5月 8日、ついに2人は立つこともできなくなり、舵取りを失った船は強い風にただ流され続けた。

5月11日の記述

十一日
曇北西風
風やや強く浪高し帆まきあげたるまま流船す
南と西に船はドンドン走つて居る
船長の小言に毎日泣いて居る
病気

航海日誌はこの日で終わっている。

良栄丸がアメリカのシアトル沖で貨物船に発見されるのは、これより半年後の10月31日だった。




事件発覚後、「良栄丸遭難事件」はセンセーショナルに書き立てられました。
特に現地医師の見解である「食人」についてはどんどん尾ひれがつき、そして生まれたのが「ミイラ船・良栄丸」の都市伝説でした。

現地医師が何をもって「食人」と見立てたかはわかりません。
ただ日誌の最後の状況をみれば、残された2人にそんな体力は残されてなかったのではないかと思えます。

航海日誌には都市伝説のように船員が発狂したり食人に及んだとの記述はなく、むしろ全員が最後まで沈着に努力を続け、極限状態の中でも仲間や残した家族を思いやる姿に当時のアメリカの人々は感動したということです。


おわり。
[PR]
by kero-tama | 2011-04-16 09:56
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