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【事件】津山30人殺し(その3)
思春期と姉

都井睦雄には3つ上の姉がいた。
睦雄が3歳のときに祖母が二人を連れて塔中に越した当時、まだ村に馴染めなかった睦雄にとって姉は唯一の友達だった。
姉が相手なので、遊びはお手玉など女の子の遊びが多かったが、自分より上手く遊べる姉を見て、睦雄は「あねしゃんはうまいな」と言っていたという。
睦雄は「あねしゃん、あねしゃん」と、常に姉についてまわった。

その後貝尾部落に越してきてからも、学校へ行きたがらない睦雄を祖母が甘やかしたせいもあり、睦雄はいつも姉が学校から帰ってくるのを家から出ずに待っていた。
二人はとても仲の良い姉弟だった。

こんなこともあった。
1930年(昭和5年)、高等科(現在の中学)に進学した年、睦雄は一年下の少女に自分が描いた少女の肖像画を手渡している。
肖像画の横には「●●さんの肖像」と少女の名が書かれ、下の方に自分の署名と認印まで捺してあった。
そして「ぼくは●●さんが好きです」と書き添えてあったという。
愛読していた「少年倶楽部」で人気の挿絵師のタッチを懸命に真似、写真のように細かく描きこまれた肖像画を見て、少女は「自分よりも睦雄の姉に似ている」と思いながらも、喜んで自宅へ持ち帰り、机の引き出しに大切にしまった。
しかし彼女の弟がいたずらで引っ張り出してしまい、それを見つけた母親に少女はひどく叱られてしまう。
母親は担任教師に絵を渡し、教師は都井宅を訪れて姉に事情を説明してから絵を返した。
しかしあまりにもその絵が自分に似ていたため、姉はそのことを睦雄に話しそびれてしまったという。

1932年(昭和7年)、睦雄が高等科を卒業した年。
睦雄が高等科から進学を志すも祖母のために諦めた経緯を思ってか、姉は祖母の反対を押し切って睦雄を補修学校へと進学させる。
しかし睦雄はすっかり熱意を失っており、登校は続かなかった。
やがて睦雄は自室に引き篭もるようになる。

この年、姉に縁談が持ち上がった。
祖母が花嫁姿と孫に期待していることを知った姉は見合いを承諾。
するとそれまで部屋に引き篭っていた睦雄が現れ、姉の見合いに反対した。
それを見た姉が「嫁になどいかない」と言うと、睦雄は大喜びしたという。
姉は「だから睦雄ももっと人付き合いしなさい。今のままじゃ体に悪い」と、睦雄を諭した。
それから睦雄は学校へも通いだし、青年会の集まりにも顔を出すようになる。

しかし、その翌1933年(昭和8年)、姉に再び縁談が持ち上がる。
姉は睦雄に気を使うが、睦雄は姉の縁談に肯定的な反応を見せた。
それに安心したのか、姉は縁談を受け、とある農家の長男に嫁いでいった。

姉が嫁いでから、睦雄は孤独に苛まれるようになった。
学校は行かなくなり、青年会にも顔を出さなくなった。
睦雄は屋根裏を改造して自室とし、誰とも会わず閉じこもる日々が続いた。

しかし、子供だけは別だった。
その頃睦雄は自分の好きな文学作品を子供向けにアレンジして近所の子供たちによく聞かせており、巧みな語り口もあって子供たちの人気は高かったという。

ある日、里帰りした姉が祖母から事情を聞き、睦雄にやさしく諭したところ、睦雄は「自分は百姓が嫌いだ。小説家になりたい」と気持ちを吐露。
姉はそれを真摯に受け止めた。
そして「百姓が嫌いなのも小説家になるのも構わないが、ゴロゴロしていてはだめ」と諭す姉に睦雄は「祖母が進学を許してくれなかったから、自分の道は閉ざされた」と言った。
それを聞いた祖母は泣いて謝ったが、以後睦雄は自分の境遇を祖母に責任転嫁し、引き篭もるための言い訳にするようになっていった。

1935年(昭和10年)、青年学校令が施行されたこの年、睦雄も本科5年制に編入されることになったが、開校式だけ出た睦雄はこれが義務制ではないと知るや(義務化されるのはそれから4年後の1939年から)、二度と登校することはなかった。

青年学校の教師には小学校の教師が兼任しており、彼らの間で「あれほどまでに成績優秀だった都井睦雄が一転して不真面目になった」と話題になった。
すると、最近赴任してきた教師の一人が都井宅を何度も訪れて睦雄の本心を聞き、睦雄に「専検」(現在の大検にあたる)の受験を勧めた。
睦雄はその教師に参考書を借り、教師を目指して勉強を始めることになった。

しかし、とある男との再会によって、睦雄の人生は思わぬ方向へと転がり始めるのだった…。

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心の支えとしていた姉が嫁ぐと、睦雄は孤独に苛まれました。
いつもやさしく諭してくれる姉がそばにいなくなったのは、睦雄にとってその後の人生を大きく左右したと思います。

しかし睦雄は青年学校教師の熱心な説得で教師を目指す勉強を始めます。
もともと成績が優秀であったこともあり、睦雄にとって勉強は苦にならなかったのでしょう。
引きこもった自分を変えたかったという気持ちもあったのかもしれません。

また姉に諭されたとき、睦雄が本気で小説家になりたかったかはわかりませんが、当時彼は「雄図海王丸」という小説をせっせと書いては友達に読ませていたということです。
それは少なくとも、事件を起こす年までは続いていたようでした。


【事件】 津山30人殺し(その4) 青年期と友人 へつづく。

  <<<【事件】 津山30人殺し(その1) 事件概要
  <<<【事件】 津山30人殺し(その2) 少年期と祖母
  <<<【事件】 津山30人殺し(その3) 思春期と姉
  <<<【事件】 津山30人殺し(その4) 青年期と友人
  <<<【事件】 津山30人殺し(その5) 絶望
  <<<【事件】 津山30人殺し(その6) 夜這い
  <<<【事件】 津山30人殺し(その7) 準備
  <<<【事件】 津山30人殺し(その8) 決行
  <<<【事件】 津山30人殺し(その9) 遺書
by kero-tama | 2010-08-21 10:50
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